第十六回/長崎の町の発展(4)開港後に開かれた町 樺島町、五島町

 
 元亀2年(1571)の開港後、島原町や大村町など6か町に続いて、長い岬の西側一帯に造成されたのが樺島町、五島町であった。樺島町も五島町も、ともにその造成が完了した時期は不明であるが、文禄元年(1592)には豊臣秀吉の直轄領(内町)となり、地子銀(固定資産税)が免除された。


▲「樺島町・五島町」『嘉永4年長崎細見図』
(個人蔵)

 
 樺島町の町名の由来は、樺島(現在の長崎市野母樺島町)の人たちによって造成されたので、樺島町と命名されたといわれる。
 樺島は古くから風待港として多くの船舶でにぎわった。なかでも堺(現在の大阪府堺市)の船団は頻繁に長崎と堺の間を往復、長崎で落札されたオランダ船や唐船の貿易品は堺に運ばれ、全国に売り捌かれた。
 

▲「傘鉾とコッコデショ」(『ニッポン』所収)

 樺島町の奉納踊「コッコデショ」は、堺段尻で、町内に宿泊した堺船の船頭らによって伝えられたものといわれる。最初に奉納されたのは、寛政11年(1799)のこと、以来、定番となった。さらにはシーボルトが五島町の傘鉾と樺島町のコッコデショを、その著『日本(にっぽん)』に挿絵入で紹介したことから世界中に知られることとなった。

 
 五島町は、五島の人たちによって造成されたので、五島町と呼ばれるようになったといわれるが、天正6年(1578)迫害を逃れて長崎に亡命したルイス五島玄雅(はるまさ)とその一族150人余りが居住したからともいわれる。
 当初は、五島町であったが、後に分割され、以後、本(ほん)五島町と浦(うら)五島町になったが、昭和10年(1935)本五島町と浦五島町は合併、現在の五島町になった。
 江戸時代、本五島町には福岡藩の支藩秋月藩(5万石、黒田家、五島町6番)の蔵屋敷が、浦五島町には柳川藩(10万石、立花家、同町1・2番地)や福岡藩(54万石、黒田家、同町5番)、鹿島藩(2万石、鍋島家、同町5番)の蔵屋敷が、さらには諫早家(2万6000石、佐賀藩国老、諫早家、同町9番)や深堀鍋島家(佐賀藩家老、6000石、鍋島家、同町5番)の屋敷、すなわち長崎出張所が置かれ、蔵屋敷には聞役、すなわち出張所長が駐在、自藩と長崎奉行所との連絡調整にあたった。
 なかでも現在の(株)中村倉庫の場所にあった深堀鍋島家の屋敷は、元禄13年(1700)12月19日に鍋島家の家臣と長崎の高木彦右衛門家の仲間(ちゅうげん)とが争った深堀騒動、すなわち長崎版忠臣蔵のもう一つの舞台となった。というのは、最初は些細(ささい)な喧嘩口論であったが、深堀屋敷での仲間たちの乱暴狼藉は騒動に発展、家臣21名が西浜町(浜町)の高木屋敷に討ち入ったので、同家は断絶に追い込まれた。
 
 また諫早屋敷には、慶応元年(1865)佐賀藩が設けた学校致遠館(ちえんかん)があり、校長に招かれたアメリカ人宣教師フルベッキを中心に副島種臣、大隈重信らによって本格的な英語教育が行われた。希望すれば誰でも入学できたので、一時は100人以上が学んだが、維新後、廃校となった。 


▲「致遠館跡」碑(五島町9番)

 
  これら蔵屋敷や屋敷が置かれる以前は、樺島町や浦五島町の海岸沿には、商人たちの土蔵が建ち並び、唐船の荷物を収納していた。しかし元禄11年(1698)後(うしろ)興善町、現在の興善町から発生した火災で、これら土蔵が類焼、唐船の荷物、金額にして銀3377貫目分、現在の金額でざっと50億円が灰となった。そこで西浜町一帯の海面を埋立て新地、現在の新地町を造成、以後、唐船の荷物は、新地の倉庫に収納された。
 
 
 
 NPO法人長崎史談会会長 原田博二
 

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