第十四回/長崎の町の発展(2) 開港とともに開かれた町 興善町、桜町

 
 元亀2年(1571)の開港ともに現在の万才町とその一帯に島原町、大村町、平戸町、外浦町、横瀬浦町、分知町と6か町が造成された。
 
 当時の長崎の港は、現在の恵美須町の瓊の浦公園の一帯であったので、ポルトガル船もここに貿易品を陸揚げした。陸揚げされた貿易品は、現在の金屋町、さらには桜町と興善町の間の豊後坂を通って6か町に運ばれたので、興善町や桜町の一帯にも次第に商店や住宅が建ち並ぶようになった。


▲豊後坂

 
 このようななか6か町に続いて本(もと)博多町が造成された。最初は、博多町であったが、別に今博多町が造成されると、博多町は、もとからあったということで、本博多町と改称された。この本(もと)という呼び方の由来は、本石灰町、本籠町、本紺屋町なども同様で、もとから、すなわち最初にできた町ということである。

 本博多町に続いて本(ほん)興善町が造成された。本興善町は、末次平蔵の父末次興善によって造成されたので、興善町と命名されたといわれる。この本興善町ももとは興善町であったが、後(うしろ)興善町に対して本(ほん)興善町と呼ばれた。この本興善町と後興善町は、その造成が前後ということではなく、表通りか裏(後)通りに位置するかで、「本」と「後」で区別した。

 ちなみに「本」を「ほん」と呼んだのは、本興善町と本五島町だけ、他は全て「もと」と呼んだ。そこで明和4年(1767)長崎奉行石谷(いしがや)備後守は、紛らわしいので、全て「もと」と呼ぶようにと命じたが、結局は守られなかった。備後守には「ほん」と「もと」の区別がわからなかったのである。
   

▲長崎細見圖(個人蔵)

 本博多町には、天正11年(1583)以降、慈善施設ミゼリコルディアの本部があったが、元和5年(1619)破却されると、その跡地に大音寺が建立された。さらに寛永18年(1641)同寺が鍛冶屋町の現在地に移転した後も、本博多町から下町、現在の賑町に下る坂道は大音寺坂と呼ばれた。

 ところで文禄元年(1592)寺沢志摩守は、長崎奉行に任じられると、本博多町に長崎奉行所を構えたが、森崎や6か町に籠もるキリシタンに対抗するため、長崎奉行所と島原町や大村町、平戸町との間に大堀(一ノ堀)を、本興善町との間に小堀を設けた。

 
 さらに慶長元年(1596)以降、豊後町と桜町の間に二ノ堀が、桜町と勝山町の間に三ノ堀が設けられたので、小堀は埋められ、堀町が造成された。なお残りの堀も江戸時代になると全て埋め立てられ、特に三の堀の一部は、引地(ひきじ)町(現在は桜町)となった。

 この堀町に隣接する新町、現在の興善町には長州(萩)藩と小倉藩の蔵屋敷(長崎出張所)があり、両屋敷の間の坂道は、長州と小倉の間ということで、巌流(がんりゅう)坂と呼ばれている。
 
 
 
 本興善町、現在の興善町の長崎市立図書館の地には、宝暦12年(1762)以降、中国語の通訳の詰所唐通事(とうつうじ)会所があった。またこの地には、明治2年(1869)わが国活字印刷のパイオニア本木昌造によって活版伝習所が設けられ、鉛合金活字の製造を実用化するなど、わが国の活字印刷の発展に大いに貢献した。さらに同図書館の北側、かつての後興善町には、儒学者向井元升(げんしょう)の屋敷があり、松尾芭蕉の高弟向井去来はここで誕生した。


▲唐通事会所跡・活版伝習所跡(興善町1番)

 

 現在の興善町と桜町の間に豊後町があった。町名は、島原藩主松倉豊後守の屋敷があったことに由来するといわれる。

 

▲時ノ鐘跡(桜町3番)
 桜町には、クルス町と呼ばれたように慶長16年(1611)に建設されたサン・フランシスコ教会が現在の長崎市役所別館の地にあったが、同19年(1614)破却され、その跡地は牢屋となった。また同市役所本館の西側には時の鐘(ときのかね)と呼ばれた報時所があり、鐘を撞いて正午を市民に知らせた。
 
 
 NPO法人長崎史談会長 原田博二
 

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