第十三回/長崎の町の発展(1) 開港とともに開かれた町 6か町(万才町)

 
 
 元亀2年(1571)長崎は、ポルトガル貿易港として開港された。最果ての一寒村でしかなかった長崎が一晩にして歴史の表舞台に躍り出たのである。
 開港に先立つ3月、森崎と呼ばれた長い岬、現在の万才町一帯に新しい町の造成が開始された。
 この地について、1579年のカリアン神父の報告書には「草原」とあるので、もともとは原野であったようである。さらにイエズス会の巡察使ヴァリニヤーノは、その書簡で記述しているように、草創期の6か町は、防御のため海に囲まれた岬の、それも高い崖の上に造成されたのである。


▲平戸町他5か町跡(万才町)

 

▲旧外浦町碑(万才町)

 6か町の造成は、島原町に始まり大村町、平戸町、外浦町、横瀬浦町、分知町の順で行われた。なお、島原町は、長崎で最初に造成された町ということで、江戸時代までは一番町と呼ばれた。
 慶長6年(1601)長い岬の先端部、旧県庁の跡地に被昇天の聖母教会が建設された。同教会は、当時、わが国を代表するような教会で、大きな時計台があり、時刻を市民に知らせるなど、市民に親しまれたが、同19年(1614)長崎の他の教会とともに破却された。

 江戸時代になると、6か町も整理統廃合が行われ、寛永11年(1634)横瀬浦町が平戸町に、同19年(1642)分知町が外浦町にそれぞれ編入され、6か町は4か町となった。
 

▲長崎奉行所西役所と大村町他『長崎港俯瞰細密画』
(部分・長崎歴史文化博物館収蔵)

 以後も、この4か町は、長崎の市政の要として重要な役割を果たしたが、その最たるものが長崎奉行所の設置であった。
 長崎奉行所は、文禄元年(1592)本博多町、現在の万才町に設置されたが、寛永10年(1633)外浦町、旧県庁の跡地に移転、分割されて長崎奉行所は東役所と同西役所となった。

 
 寛文11年(1671)東役所が立山、現在の長崎歴史文化博物館の地に移転したので、以降は西役所だけとなった。10万石の格式で、敷地は約1500坪。幕末には、海軍伝習所や医学伝習所が設置されるなど、わが国の近代化に大きく貢献した。


▲イエスズ会本部他碑

 

▲島原町他3か町『長崎細見図』(部分)
 地役人のトップは、町年寄と呼ばれ、その財力は大名並といわれた。その屋敷も高島(四郎兵衛)家は、大村町の現在の長崎家庭裁判所の地に、高木(伝左衛門)家は、島原町、現在の長崎地方裁判所の地に、後藤(庄左衛門)家は、島原町、現在の長崎地方検察庁の地にあったが、高島家は1024坪、高木家は570坪、後藤家は671坪と、いずれも大邸宅であった。
 また、出島のオランダ商館に近いこともあってか、外浦町の長崎グランドホテルの跡地には本木家、平戸町の旧長崎県警本部の跡地には吉雄家と、オランダ語の通訳を務めた阿蘭陀通詞の屋敷があった。
 

▲高木家屋敷跡(万才町)
 明治5年(1872)6月14日から4日間、明治天皇が長崎に行幸された際は、島原町の旧町年寄高木(伝左衛門)家の屋敷が行在所(あんざいしょ・宿泊所)とされたことから、同町は、まさか万歳を三唱したわけでもないだろうが、以後、万歳町と改称された。
 さらに昭和39年(1964)の町界町名の変更で、万歳町は、他の大村町、平戸町、外浦町とともに万才町となり、現在に至っている。
 
 
 NPO法人長崎史談会長 原田博二
 

長崎今昔トップに戻る >>