第十一回/長崎と世界文化遺産

 
T、はじめに
 昨年、平成30年(2018)7月4日「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(以下、「潜伏キリシタン関連遺産」と略称)がユネスコの世界文化遺産に登録され、長崎市は「明治日本の産業革命遺産−製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(以下、「産業革命遺産」と略称)とともに、2つの世界遺産を保有する、日本はもとより世界でも稀な都市となった。
 

U、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
 「潜伏キリシタン関連遺産」は長崎県下と熊本県天草にある12の資産によって構成され、これらは潜伏キリシタンの信仰継続に関わる伝統の、

   
(1)始まり(1604〜37/39)
 @「原城跡」
(2) 形成(1637/9〜1797)
 A「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」、B「平戸の聖地と集落(中江ノ島)」、C「天草のア津集落」、D「外海の出津集落」、E「外海の大野集落」
(3) 維持・拡大(1797〜1865/73)
 F「黒島の集落」、G「野崎島の集落跡」、H「頭ヶ島の集落」、I「久賀島の集落」、
(4) 変容・終わり(1865/73〜)
 J「奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)」、K「大浦天主堂」、と時代によって分類されている。
 このうちのD「外海の出津集落」、E「外海の大野集落」およびK「大浦天主堂」の3つの資産が長崎市内にあり、D「外海の出津集落」は、聖画像をひそかに拝み、教理書や教会暦をよりどころとして、E「外海の大野集落」は、神社に自分たちの信仰対象を重ねて、(2)形成時代に信仰を継続してきたとされる。
 また、K「大浦天主堂」は、(4)変容・終わり時代に、開国からまもなく長崎に来た宣教師によって、居留地の西洋人への宣教活動のために建設されたが、宣教師と浦上の潜伏キリシタンが出会う「信徒発見」のきっかけとなり、その後の弾圧の強化とそれに対する西洋諸国の抗議を経て、解禁への道を開いた。

 このK「大浦天主堂」の横に、このほど、「旧羅典神学校」(国指定重要文化財)と「旧長崎司教館」(県指定有形文化財)を使って「大浦天主堂キリシタン博物館」が開設され、大浦天主堂をはじめ長崎のキリスト教に関する歴史資料が展示されている。
 

 また、長崎港岸壁にある出島ワーフ2階には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」が設置されており、「潜伏キリシタン関連遺産」関係教会見学・各種質問等の受付、長崎巡礼のコース相談やガイド紹介を行っている。
 なお、大浦天主堂の正面真向かい、北方約2.2キロメートルのところにある殉教の丘「西坂」(日本二十六聖人殉教地−県指定史跡)には日本二十六聖人記念館などがあって、日本でのキリシタン繁栄と迫害を物語る世界的にも貴重な資料が展示されている。
 
V、「明治日本の産業革命遺産−製鋼・製鉄、造船、石炭産業」
 一方、「潜伏キリシタン関連遺産」に先立ち、平成27年(2015)7月5日に世界文化遺産に登録された「産業革命遺産」は、全国8県11市に散在する23の資産で構成され、これらは明治日本が急速な産業化を成し遂げたことを証言する遺産群の
(1)「萩/萩の産業化初期の遺産群」@萩反射炉(1856)、A恵美須ヶ鼻造船所跡(1856)、B大板山たたら製鉄遺跡跡(1855)、C萩城下町(17‐19世紀)、D松下村塾(1856)、
(2)「鹿児島」E旧集成館[旧集成館反射炉跡(1857)・旧集成館機械工場(1865)・旧鹿児島紡績所技師館(1867)]・F寺山炭窯跡(1858)・G関吉の疎水溝(1852)、
(3)韮山H韮山反射炉(1857)、
(4)釜石I橋野鉄鉱山(1858)、
(5)佐賀J三重津海軍所跡(1858)、
(6)長崎(1)三菱長崎造船所K小菅修船場跡(1869)、L第三船渠(1905)、Mジャイアント・カンチレバ―クレーン(1909)、N旧木型場(1898)、O占勝閣(1904)、(2)高島炭鉱P高島炭坑(北渓井坑跡・1869)、 Q端島炭坑(軍艦島・1890)[16]、(3)R旧グラバー住宅(1863)、

(7)三池S三池炭鉱・三池港(宮原坑・1898、万田坑・1902、 専用鉄道敷跡・1905、 三池港・1908)、21三角西港(1887)、
(8)八幡22官営八幡製鐵所(旧本事務所・1899、修繕工場・1900、 旧鍛治工場・1900)23遠賀川水源地ポンプ室(1910)、に分類されている。
これら全国23構成資産のうち、長崎に8資産があり、そのすべてが長崎港周辺ににある。長崎はもとより全国に散在する「産業革命遺産」の全貌を知ることのできる施設として、グラバー園内あたりに、研究施設も兼ねた「産業革命遺産センター」がほしいところである。「潜伏キリシタン関連遺産」について、前述のとおり「大浦天主堂キリシタン博物館」が開設されたので、隣接するそこと一緒に見学できることになる同センターは世界文化遺産の広報施設として、きわめて有効な存在となるであろう。
 
W、T・U両者の深い関係
 「大浦天主堂」と「旧グラバー住宅」が長崎市南山手にあって隣接し、しかも双方とも天草出身の小山秀之進(秀・1828〜98)が建築していることが如実に示すように、両遺産はきわめて深い関係にある。外海に在勤して出津教会などを建立して布教と地域の活性化に努めたフランス人宣教師のド・ロ神父は「潜伏キリシタン関連遺産」とともに、西洋の近代産業を導入したことにおいて、「産業革命遺産」にも広い意味で深く関わっている。このようなことから、両遺産を一緒に組み合わせて説明することにより、明治維新前後に長崎が日本の近代化に果たした大きな役割が明確になると考えている。その意味で、「長崎世界文化遺産センター」がほしいところであり、両者の関連施設や交通手段をまとめて表示した地図などはすぐにでもできるのではないだろうか。
 
W、長崎第3の世界文化遺産候補(1)―原爆被災遺産
 最後に、長崎市には、第三・第四の世界文化遺産に登録される資格のある資産が存在することを強調しておきたい。その一つは原爆遺産である。広島の原爆ドーム(広島平和記念碑・被爆当時は広島県産業奨励館)が平成8年(1996)に世界文化遺産に登録され、「負の遺産」として有名である。長崎の浦上天主堂廃墟がそのまま残っていれば、これにも勝る「負の遺産」になっていたであろう。原子爆弾落下中心地、 旧城山国民学校(小学校)校舎、山里国民学校(小学校)、山王神社二の鳥居、旧長崎医科大学門柱、旧長崎警察署庁舎(元長崎県庁第3別館)などの原爆遺構を一括して、「群」として世界文化遺産に登録することは可能であり、する意味は大きいと考える。
 
X、同候補(2)―唐寺、唐人屋敷、新地蔵地などと出島といった唐蘭貿易交流遺跡
 また、興福寺(1621創建(以下、同じ)、大雄宝殿が重文)、福済寺(1628)、崇福寺(1629、大雄宝殿・第一峰門が国宝、三門(楼門)・鐘鼓楼・護法堂(関帝堂又観音堂)が重文)、聖福寺(1677、大雄宝殿・天王殿・山門・鐘楼が重文)の唐四ヶ寺は、全国に例を見ない黄檗文化財の集積であり、これまた「群」として充分に世界文化遺産に登録する資格があるのではなかろうか。これに宇治の黄檗山万福寺、小倉の広寿山福聚寺といった古い国内の黄檗寺院を加えることも考えられるし、唐四ヶ寺に稲佐の悟真寺(浄土宗・1598)や唐人屋敷跡・新地(新地蔵所跡)、さらには深堀の菩提寺(曹洞宗・1229)を加えて「長崎日中交流史跡」にまとめてもよい。これに出島和蘭商館跡や蘭人・阿蘭陀通詞の墓地を加えると「唐蘭貿易交流遺跡」となる。

 
Y、同候補(3)―長崎市中央部周辺山麓に連続立地する宗派の異なる仏教寺院・墓地
 なお、風頭山麓に、清水寺(真言宗・1623)、崇福寺、大光寺(浄土真宗・1614)、発心寺(浄土真宗・1710)、大音寺(浄土宗・1616)、晧台寺(曹洞宗・1608)、長照寺(日蓮宗・)、延命寺(真言宗・1630)、興福寺、浄安寺(浄土宗・1615/24)、三宝寺(浄土宗・1623)、深崇寺(浄土真宗・1615)、禅林寺(臨済宗・1644)、光源寺(浄土真宗・1631)の宗派の違う14ヶ寺が、後山の古い墓石の残る墓地とともに連続して存在するのも、きわめて珍しい事例であり世界文化遺産登録に値する事例かもしれない。

 また立山山麓には、やはり、本蓮寺(日蓮宗・1620)、聖無動寺(真言宗・1644)、福済寺、東本願寺長崎教会(浄土真宗)、勧善寺(浄土真宗・1626)、聖福寺、永昌寺(曹洞宗・1646)の7ヶ寺が付随した墓地とともに連なって現存している。これも、文化財登録にふさわしい珍しいことではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 以上、紹介した長崎市の寺院・墓地を中心とする貴重な文化財(群)は、世界文化遺産に登録する、しないに関わらず大切に保存・修復・整備して後世にしっかり残したいものである。

 
 
     

NPO法人 長崎史談会 理事:宮川雅一

 

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