第三回/グラバー邸に出入りした日本人たち

 


写真提供 グラバー園 管理事務所

 

 今年9月、南山手の長崎観光拠点「グラバー園」が、開園40周年を迎え、立派な記念誌も刊行された。ここの中心施設がわが国最初の洋風建築物として国の重要文化財に指定された「旧グラバー住宅」であることは、言うまでもない。世界遺産候補「明治日本の産業革命遺産―九州・山口と関連地域」の構成資産にもなっている。
 ここには、文久3年(1963)建設されて以来、いや建設中から多くの日本人が出入りしてきた。もともと最初はグラバーないしグラバー商会の接客用として建設されたので、明治になって住宅用に増改築されるまでには、当然、商談その他グラバーにいろいろ用事のある人がたくさん訪ねているし、ここに匿われた人もいる。これらのなかで有名な人物などを選び出して、紹介する。

 
(1) この建物は、すぐ近くにあって、長崎のもう一つの世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の代表的構成資産である国宝・大浦天主堂を建設した天草の建築家・小山秀之進(秀)が建設しているので、建設中から同人やその部下たちが大勢出入りしているのは間違いない。同人は、その後旧リンガー住宅・旧オルト住宅も手がけているので、そのついでに立ち寄ったり、手がけた炭鉱関係のことでもしばしば訪れていることだろう。

(2) 亀山社中では、坂本龍馬の留守を預かる近藤長次郎がグラバーと特に親しかったようで、薩摩藩名義で長州藩への汽船や小銃などの取引を纏めたのは近藤であるから、当然ここに出入りしている。龍馬も訪れたであろうが、なぜか史料があまりない。紀州藩の伊達陽之助(陸奥宗光・外務大臣)や土佐藩の後藤象二郎と岩崎弥太郎は、グラバーとの深い関係から言って、度々訪れたと思われる。


写真提供 グラバー園 管理事務所


写真提供 グラバー園 管理事務所

 
(3) 長州藩の高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文・初代首相)は、亀山社中や薩摩藩の案内でグラバー園を訪れている。同藩の桂小五郎(木戸孝允)については、密かに長崎に来たとき、ここに逃げ込むことによって、危うく幕吏による逮捕を免れている。
 

70歳のグラバー
写真提供 グラバー園 管理事務所
(4) 薩摩藩については、家老の小松帯刀が西郷隆盛らと龍馬を伴って船便で2回鹿児島に帰ることがあり、いずれのときも長崎に寄航している。その際、小松は上陸して、1度は確かにグラバー邸に行っている。世界遺産候補の構成資産の一つの小菅修船場(跡)は、小松が責任者となった薩摩藩とグラバーが共同で建造したもの。しかし、西郷については、2回とも上陸したかどうかが不明で、グラバー邸に行った確かな証拠はない。

(5) 同藩の五代才助(友厚・後の大阪商法会議所初代会頭)は、薩英戦争の際、松木弘安(寺島宗則・後に明治政府の外交官)とともに英艦の捕虜となり、横浜で脱走後一時五代が長崎に来てここに匿われていた。この2人は、その後、グラバーの船で、長崎の通詞・堀孝之を含む薩摩藩関係者総勢19人を引率して英国に密航している。

 

(6) 元々の本博多町(現・興善町)のほか、すぐ近くの埋立海岸(後の小曽根町)にも屋敷を構えた長崎の有力商人・小曽根乾堂や弟の清三郎と英四郎、茶商人で女傑といわれた大浦慶といった長崎人がしばしば出入りしたことは言うまでもない。

(7) グラバー商会は明治3年(1870)破産するが、グラバーは三菱の顧問となって、高島炭鉱の経営にあたる。したがってその頃から三菱、特に高島炭鉱関係者の訪問が多かったであろう。

 
(8) グラバーは、明治30年(1897)東京に妻ツルとともに居を移し、以後息子の倉場富三郎・ワカ夫妻がここを管理する。したがってその後は同人が勤務するホーム・リンガー商会関係者など富三郎の知人が主として出入りすることになる。

(9) 明治44年(1911)12月16日、グラバーは東京麻布邸で死去する。遺骨は長崎に運ばれ、ここで、英国国教会の式次にのっとり盛大な葬儀が営まれたのち、新坂本国際墓地に埋葬された。葬儀には、安藤謙介長崎県知事、北川信従長崎市長、三菱造船所とホーム・リンガー商会の幹部をはじめ、長崎の著名人がこぞって参列した。

長崎史談会相談役 宮川雅一


グラバー墓碑 (新坂本国際墓地)

 

 

 

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