第十八回/長崎の石碑特集その四−石碑・銅像 坂本龍馬
今回は長崎の石碑特集第四弾として浜の町から丸山公園、伊良林界隈を訪ねます。

 
土佐商会跡
慶応2年(1866年)に開設された土佐藩の商館である開成館長崎出張所。長崎では土佐商会(以下「土佐商会」という)と呼ばれていました。土佐商会があった場所は現在の浜町(旧西浜町)で、土佐藩の財政を立て直そうと軍事力強化を目的に後藤象二郎が赴任し、運営を任されていました。
当時、坂本龍馬率いる亀山社中は、窮地にあり、これを救ったのは、土佐藩でした。慶応3年(1867年)、土佐藩士、溝淵広之丞らの斡旋で、後藤と龍馬は会談しました。互いの敵対関係を捨てて政治情勢について見解が一致し、意気投合。このことが、後の船中八策提案のきっかけともなります。この歴史的会談の場所となったのは清風亭でした。
   
清風亭があった場所は現在の万屋町(旧榎津町)駐車場付近です。この場所は長い間不明でしたが、明治初期の地図などから推測し平成21年に特定されたものです。
この会談で龍馬は資金援助と引き換えに亀山社中が土佐藩の別働隊(海援隊)になる現実策を受け入れました。
やがて後藤は長崎を離れる事になり、その後任として岩崎彌太郎を指名しました。彌太郎は土佐商会主任となり、着任するや直ちに土佐藩の貿易に従事し、土佐商会を拡大させたのでした。明治元年(1868年)長崎の土佐商会が閉鎖されると、彌太郎は大阪商会(旧開成館大阪出張所)に転出する事になり、長崎での経験を活かして事業を九十九商会に引き継ぎ、後の三菱商会(現在の三菱グループ)へと発展していったのでした。
 

 
丸山公園 坂本龍馬像
丸山公園内に坂本龍馬の銅像が建てられました。この銅像を建てるにあたり募金や寄付で資金が集められました。丸山公園近くには龍馬ら幕末の志士が通った料亭花月もあり、ゆかりの地でもあります。龍馬が暗殺された日は奇しくも誕生日でもあったため、この日に因んで平成21年(2009年)11月15日にこの銅像の除幕式が行われました。
銅像は20代の若かりし頃の龍馬をイメージしたもので、三種の神器(懐中時計、ピストル、ブーツ)を備えて建っています。
長崎市の新たな観光スポットとして注目を浴びています。
 

 
亀山焼窯跡
若宮稲荷神社から南へ少し登ったところに亀山焼窯跡(亀山社中記念館より徒歩1分)があります。
この亀山焼きは坂本龍馬の愛用していた焼き物として有名です。
亀山焼窯は文化4年(1807年)大神甚五平(おおがみじんごべい)らがオランダ人向けに売る水瓶製造の窯を築き陶器を焼いたことが始まりです。文化11年(1814年)白磁染付の製品に転換しました。数多くの名品を残されてきましたが財政難のため慶応元年(1865年)3月に廃窯となりました。
希少価値の高い亀山焼は愛好家のなかでは幻の焼き物として珍重されています。


以前、この長崎今昔でも紹介した亀山社中は平成18年3月より閉館されていましたが、この建物は所有されている方のご厚意によって、長崎市が整備し平成21年8月1日に「亀山社中記念館」として生まれ変わりました。
ゆかりの資料の展示はもちろんのこと幕末当時の間取りも再現し、未公開だった中2階の隠し部屋も見ることができます。
全国各地から幕末ファン、龍馬ファンが足を運んでくるほど名所となっています。
 
 

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