第十七回/軍艦島
今回は長崎の大きな歴史の1つとなった「軍艦島(端島)」を紹介します。

 


2002年2月2日の軍艦島(端島)

 

軍艦島 正式には端島(はしま)という島の名です。(以下「軍艦島」)
軍艦島とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島で長崎港外約17.5kmに位置し、海底石炭の採炭の島として栄えました。
名前の由来は、その外観からで、軍艦「土佐」に似てることから軍艦島と呼ばれるようになりました。

石炭と日本の歴史は古く、江戸時代から燃料として使用されていました。
古生代の植物が完全に腐敗分解する前に地中の埋もれ、数億年という長い時間の中で炭化し石炭の層を作っていきました。
産業革命の20世紀初頭まで化学工業の原料として「黒いダイヤ」などと呼ばれて珍重されていました。
明治に入り、石炭工業の近代化が始まり、火力発電所や製鉄所の建設、そして工業法などの法律の整備、技術の進歩があったことはいうまでもありません。

昭和20年(1945年)終戦後は、国の復興に向けて増産を推進しましたが、石炭過剰により貯炭はピークに達し、石炭合理化政策がスタートし、炭鉱業が衰退していくようになりました。エネルギー原料はコストのかかる石炭から石油へ移行していったのです。
 

 
軍艦島は日本で初の鉄筋コンクリート造高層アパートの建設が着手されたのが大正4年(1915年)のことでした。島には土地がなく、しかたなく空中に伸ばしたに過ぎませんでした。
この高層アパート郡や煙突が文頭で述べた名前としての愛称「軍艦島」が定着していきました。

人口密度を国勢調査の結果から見てみると、昭和35年の5,267人は軍艦島人口の最大記録であり、人口密度は換算すると1平方キロメートル当たり8万3,600人となり、当時の東京の人口密度の9倍に相当し、世界一の人口密度の島でした。

島の生活を送るうえで必要なものは何でもそろっており、役場をはじめ、酒屋、駄菓子屋といった商店、共同浴場や郵便局などが軒を連ねていました。
中でも娯楽施設は人気があり、映画館「昭和館」も昭和2年に開館し、島の人々の楽しみの場所となりました。ほかにも理・美容院・パチンコ店・雀荘などがあり、島の人の憩いの場となりました。
軍艦島には鉄筋コンクリートの建物ばかりではなく、木造の建物も密集しており、火事になると隣接する建物や棟から死者もでる大火災になっていました。
 

 
発展しつづける軍艦島の採炭も昭和49年(1974年)1月15日、端島小中学校の体育館にて閉山式が挙行され84年間の歴史に幕を閉じました。
最盛期、約2,000人を数えていた従業員も閉山時には、816人となり、閉山翌日から次々と島を離れていきました。再就職のため、長崎や他県へとみんな移住していったのです。

軍艦島に誰もいなくなって約30年が経過し、島の所有は高島町へ移り、平成17年に高島町が長崎市に合併、所有は長崎市になりました。
以前は、立ち入り禁止としていた島が平成21年4月末より長崎市条例により軍艦島の上陸が許可されました。旅行会社のツアーや長崎さるくのコースにもなっており、全国から注目の的となっています。

無人島となり30年を経た島は、台風などで、島の破損や自然崩壊が進み、今や危機状態にあります。
「今のこの軍艦島を世界文化遺産に」という願いもあり、世界遺産としての価値ある建物の数々、その軍艦島独特の歴史と文化を後世に残して頂きたいと思います。
 

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