第九回/長崎の石碑特集その三−金屋町〜上町周辺
今回は長崎の石碑特集第三弾として長崎駅から程近い、金屋町〜上町周辺を取材いたしました。
この辺りにも数多くの跡地として石碑が残っています。

 
後藤象二郎邸跡
現在のテレビ長崎(KTN)の正面玄関左横にこの碑が建っています。後藤象二郎は天保9(1838)年、土佐で生まれました。土佐藩で要職に付き、慶応2(1866)年、武器や軍艦を買い付けの為に長崎にやってきました。ここで土佐藩を脱藩していた坂本竜馬と意見が一致し、土佐藩を倒幕派に導きました。明治7(1874)年には官営であった高島炭坑の払い下げを受け、後に三菱造船所の創設者である岩崎弥太郎に譲渡しました。
 

 
大村藩蔵屋敷跡
長崎市中町、中町教会横にこの碑が建っています。ここには江戸時代の初期から大村藩の出先機関がありました。もともと長崎は大村藩の所領でしたので幕府の直轄地になってからも長崎港警備の役目にあたりました。多数の大村藩士が長崎に駐屯して港の番所に勤務し、藩の通商の事務や情報収集などの任務を務めました。
 

向井去来生誕の地
長崎市興善町、元・新興善小学校の裏手にこの碑が建っています。
向井去来は、慶安4(1651)年、向井元升の次男として生まれました。
8歳にして父と共に京に上がり、歌才を認められて松尾芭蕉の高弟となりました。元禄4(1691)年、凡兆と共選の『猿蓑(さるみの)』を選出し、芭蕉の直接指導を得て晩年『去来抄』をまとめ芭蕉俳論を確立しました。
日本俳諧史上に残した足跡は高い評価を得ています。
 
 

 
長崎会所跡
長崎市上町、元県立美術博物館近くにこの碑が建っています。
元禄11(1698)年頃、それまで幾つかに分かれていた貿易関係の役所が、幕府の命令で統合され、長崎会所が開かれました。ここの責任者は長崎町年寄(現在の市長職にあたる)で、全ての貿易事務と長崎の財政を取り扱いました。その利益金は幕府に納め、全市民にも(かまど銀・箇所銀として)配分しました。つまり貿易が盛んになると、幕府も長崎市民も同じように 、うるおう仕組みができて幕末まで続きました。
 
 

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