第三回/亀山社中
『亀山社中ば活かす会』の協力のもと、様々な坂本龍馬の足跡・長崎との関わりをおっていきたいと思います。

 

坂本龍馬

坂本龍馬は、天保6年(1835)、土佐(現在の高知市)に郷士坂本家の次男として生まれました。19歳のときに、江戸の千葉定吉の道場に入門し、北辰一刀流を修業しました。修業後は土佐に戻り、武市半平太らが結成した土佐勤王党に加盟。
その後、同志と共に土佐を脱藩し幕臣勝海舟のもとで勝塾や神戸海軍操練所で航海術を学びました。操練所が閉鎖されると、長崎
に自分たちの理想を実現させるための結社をつくりました。これが日本最初の商社・亀山社中(のちの海援隊)で、慶応元年(1865)のことです。
 
龍馬は、この亀山社中を足がかりにして、翌慶応2年(1866)に犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩とを結び付ける「薩長同盟」を成し遂げました。この同盟の結成により、200年以上続いた徳川幕府を倒して天皇中心の政府をつくろうとする「尊王倒幕」運動が本格的になります。そして、慶応3年(1867)、第15代将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返すという大政奉還を行いましたが、これも龍馬の発案によるものでした。
このように、一介の脱藩浪人でありながら、龍馬が幕末の日本史上に果たした役割は、大きなものです。しかし、もう少しで新しい時代を迎えるという、慶応3年(1867)の11月15日、龍馬は潜伏中の京都で暗殺されました。33年の短い生涯でしたが、その人柄や生き方は忘れられることなく、今でもたくさんの人々に共感を与え続けています。

亀山社中の詳細


亀山焼の名品の数々

亀山社中は、慶応元年(1865)、薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助をうけて、坂本龍馬たちが、長崎の亀山につくった結社の名前です。
幕末頃、亀山では「亀山焼」という焼物が一時焼かれていたものの廃窯となり、龍馬たちはその窯で働いていた人々の住居の跡を根城にしていました。亀山社中の「亀山」はその地名をとったもので、「社中」とは「人の集まり」、「結社」の意味です。
 
亀山社中は、徳川幕府の打倒(倒幕)を目的とした活動を行うとともに、当時貴重だった蒸気船運用の技術を活かして、船の回送、船による人員・物資の運搬などの運輸業、また、軍艦・銃器の購入あっせんなどの商業活動を行っていました。亀山社中が「日本最初の商社(カンパニー)」といわれるのはそのためです。
亀山社中には、龍馬ら武士の他に、町人・医者・農民などが参加しており、身分制度が厳しかった当時としては、非常に進歩的な集団でした。結成当時に薩摩藩から支給された給料が、龍馬も他の者も平等に3両2分だったことからも、この事が分かります。また、亀山社中のメンバーは、脱藩浪人が多かったので非常に元気がよく、ユニフォームの白い袴にちなんで、長崎では「亀山の白袴(しろばかま)」と呼ばれていたそうです。
慶応3年(1867)、亀山社中は土佐藩に付属することとなり、名前も「海援隊」と改められて、龍馬がその隊長に任命されました。同年11月に、龍馬が暗殺された後も、各地で活躍を続け、明治元年(1868)に解散しましたが、その隊員の中から、のちの外務大臣陸奥宗光や、初代衆議院議長中島信行などの多数の人材を生むなど、龍馬とともに亀山社中・海援隊の名前は幕末史上に残るものとなりました。
現在でも、彼らが住んだ亀山社中の建物の一部が残っており、歴史ファンや長崎の街を愛する市民の会「亀山社中ば活かす会」によって、管理運営されています。
そして、全国から訪れる龍馬ファンや観光客の皆さんのために、内部を公開しているのです。
あわせて亀山社中には、幕末維新の時代に活躍した人々の写真を展示して、お客さんにご覧いただいています。
 

亀山社中の跡の内部

寺町通りから山手に向う階段を上がっていくと、そこは『龍馬通り』と呼ばれ、亀山社中の跡に続いています。あがる事、100数メートルの所に位置します。

 

上の左は『亀山社中の跡』の入り口、右はその入り口横にある、下記『龍馬の像』でも紹介するものの原型となった像が設置されています。
右の写真は、亀山社中に入ったすぐの場所に飾られている龍馬の等身大の写真です。当時としては背の高かった龍馬(172cmぐらいだったとされている)と見学に来られるお客様はよく背を比べていかれるそうです。

 

内部には幕末期の写真や資料がたくさん展示されています。海援隊で龍馬と共に働いた同士の写真や明治初期の長崎の風景、亀山焼など、もちろん歴史の勉強となるもので室内は溢れています。
尚、一般公開は、毎週土・日・祝日の午前10時から正午までと午後1時から午後3時までです。単なる観光客の方というより、幕末の歴史に興味を持たれたり、やはり龍馬ファンの方々が全国各地からお見えになるそうです。


龍馬のぶーつ

亀山社中跡からすぐの場所にあるこの『龍馬のぶーつ像』は亀山社中創設130周年記念として平成7年10月に建立されました。当時としては、かなりの異端児とされていた龍馬らしいブーツ姿の面影。そして龍馬はこの場所で眼下に広がる景色を眺め日本の未来を模索していたのかもしれません。
正面には稲佐山を望みます。

龍馬の像

亀山社中の跡から坂道・階段を更に風頭山方面に登っていくと、堂々と長崎港を見下ろし凛とした姿勢で龍馬の像が建っています。毎年多くの観光客がこの地を訪れています。
 

龍馬像のすぐ横には、司馬遼太郎氏の有名な著書『竜馬がゆく』の一節が書かれた文学碑も建立されています。(平成10年2月1日除幕)
 

長崎今昔トップに戻る >>