長崎しにせ会加盟店は激動の歴史とともに歩んで参りました。
創業当時の写真など現存する資料を交えながら加盟店の歴史を
振り返ります。

第六回/料亭 富貴樓

富貴楼と宮内省とのご縁

 まず大正十年(1921) 久留米において陸軍大演習が大正天皇ご観覧のもと行われた折に、二代目内田榮四郎・三代目洪冶が久留米まで出向き大正天皇のお食事の調理を仰せつかり長崎料理を献上いたしました。
これを機会に宮内省とのご縁が始まりました。
 当時、榮四郎は屋号にちなみ、牡丹花を盛んに栽培し、文人墨客がこの花園を観賞するのに「牡丹会」という催しを開き、市民一般にも開放した時代がありました。「牡丹会」は宮内省の高官の方から陛下のお耳にも入り、天皇・皇后両陛下より牡丹の苗を頂戴致し、また、その他各宮家の皇族方からも毎年苗を送って頂くようになりました。
 大正十四年(1925)には 閑院宮載仁親王ご宿泊の折には、二階を改造、親王はベランダより「長崎はたあげ」を見物されました。
 大正十五年一月(1926) 宮内省大膳職仕出の司厨大野小助氏が当亭を訪れ三ヶ月間住み込み、榮四郎からしっぽく料理の秘伝を受けました。当亭はそれを記念して、特別注文の有田焼のしっぽく料理器一式を献上いたしました。
 昭和十五年十一月(1940) 長崎三菱造船所にて、当時世界最大最強といわれた戦艦武蔵の進水式が行われる際に、伏見宮殿下が来崎し、当亭にお立ち寄りになられました。そのため馬町から当亭下までの道路拡張工事が行われました。
 昭和二十四年(1949) 天皇陛下御巡幸の折、長崎料理の豚の角煮を召し上がるとの事で、その調理を当亭に依頼が有り、宿泊所である三菱占勝閣に献上する栄誉を賜わりました。
このような宮内省とのご縁が今も富貴樓では語り継がれています。


1999年の長崎市都市景観賞【歴史ある建物】部門受賞


玄関

庭園

大広間

富貴樓略歴

 大正十五年二月十三日の大阪朝日新聞に「富貴樓は長崎における料理屋の草別として三百年の歴史を誇った千秋亭の後身で、明治二十年内田氏の経営に移るとともに現在の屋號に改められた、同樓では有栖川宮、伏見宮、閑院宮、久邇若宮各殿下を始め奉り、獨ハンヂン親王、露太公その他伊藤博文公など明治の元勲、現在の各大官等に長崎式曾席を味はってもらったことを誇りとしている。」とあります。
 前身は千秋亭、代々吉田屋を名乗り、明暦(1655)の頃には長崎松の森に料亭吉田屋を営みます。寛文五年(1665)吉田屋嘉一が生まれました。延宝八年(1680)嘉一は吉田屋を拡充し「千秋亭」を興し自ら初代を名乗り道甫と号していました。寛保元年(1741)嘉一没行年七十七才。寛政(1799〜1801)には「崎陽松の森千秋亭」で有名です。大田南畝(蜀山人)は自署「瓊浦雑綴」に、当亭の料理献立を記載しています。また、俳人紫暁の日記に「千秋亭に到り終日和漢の珍味に飽り」「四方眺め比類なし」とあります。以後千秋亭と吉田屋は屋号を併称して営業しました。
 富貴楼の大通り(下西山通り)側の石垣は元禄(1688)初期のものといわれ、造りは「はね出し」または「武者返し」(別名「忍者返し」)と云われ築城などに用いられていました。上部を天端(てんぱ)と云います。


明治時代の【富貴楼】

長崎くんちと富貴楼

富貴樓には長崎における貴重な文化遺産が所蔵されています。
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【はじまり】

 長崎と中国との交流は慶長五年(1600)に始まりましたが、寛永十年(1633)徳川家光は、第一回の鎖国令を出し、寛永十二年には中国貿易船も入港は長崎だけに限られました。
 元禄二年(1689)唐人屋敷が造られ、それまで長崎市内に散宿していた中国人は現在の館内町の一区域に集まって住むことになります。中国人が長崎へ来て唐人屋敷に移り住むまでの約八十年、この間、中国人が
市中の町家に雑居することを「町宿(マチヤド)」といいました。長崎市民と最も親密な交歓があった時代でもあります。
 この町宿での生活の中で、長崎人は、はじめて彼らのご馳走、中国料理というものにお目にかかったわけで、それが今日の「長崎卓子料理」のはじまりとなりました。

【卓袱の意味】

 卓袱の言葉の意味については、加盟店一覧から、「富貴樓」のページをご参照ください。

料理の一例

お刺身

大鉢

中鉢(角煮)

【和やかな雰囲気】

 「卓子料理」は文字通り、一つの卓を囲む食事で、会席膳のように格式張ったところがありません。
 一つの器に盛ってある料理をお客様は自分の小皿に「直き箸(自分の箸)」でとって食べる、いわゆる「おもやい」の雰囲気でたいへんうちとけた楽しさがあります。封建の昔でも、天領の長崎では身分上下のへだたりなく武家町人も同席で、この「卓子」を囲みました。日本の他の土地に、「卓子料理」が発達しなかったのは、このような歴史的風土が無かったからでしょう。

【おひれ(お鰭)】

 「長崎卓子料理」の特徴として、先ずはじめに「お鰭(おひれ)」という吸物が出ます。これが出ると、主人役がお客様に「おひれをどうぞ」と挨拶をします。それがすんで始めて宴がはじまるのです。主人の招待の挨拶、ご答辞、その他もすべて「おひれ」のあと、このへんが普通と違うところです。お客様には最初、卓の上にお一人様に取り皿二枚、箸、トンスイ(陶器のサジ)が配られています。二枚の小皿で始めから終わりまで全部の料理を食べ分けるならわしですが、こだわることはありません。
 「おひれ」というのは、お客様一人に魚一匹を使いました、という熱烈歓迎の気持ちが込められています。