長崎しにせ会加盟店は激動の歴史とともに歩んで参りました。
創業当時の写真など現存する資料を交えながら加盟店の歴史を
振り返ります。

第十二回/田中旭栄堂

栗饅頭の誕生

 初代、田中素郎市氏によって田中旭栄堂が創業したのは明治31(1897)年、『福砂屋』で菓子づくりを学び栗饅頭を作り始めたきっかけは1904年の日露戦争の時だったといわれています。
 栗饅頭自体はどこにでもあるお菓子、田中旭栄堂では日露戦争の戦勝祝いとして作られ、始めは形も卵形でしかも栗が入っておらず原材料の質も今よりかなり劣っていたと考えられます。今ほどのおいしさを探求したものではなく、どうやら『勝ちぐり』にあやかって作られていたようです。
 店内に入ると大正時代の商法をほうふつとさせる新聞広告があります。長崎−上海航路の就航を祝したもので、長髪の西洋人が笑顔で栗饅頭を抱きかかえる、という斬新な図柄、これは素郎市氏の人柄をしのばせています。


シンボルマーク

修行の厳しさと発見

 素郎市氏は体が小柄で小回りが利き、とにかく、じっとしていられない性格。戦時統制下、長崎市内の菓子組合は『乾パン』づくりを命じられ素郎市氏は率先してその任にあたったそうです。終戦後、現社長である宏氏は小学5年から上町(当時の東中町)の自宅工場で働き始めたそうです。遊びたい盛りだったのにもかかわらず、放課後は工場へ直行の毎日が続きました。
 宏氏は高校卒業後、約4年間にわたり東京、大阪の有名店で修行に励みました。粉のこね方一つにしても関東と関西では全く違う、駆け出しの頃は重労働でしたが全てが新鮮だったと当時を振り返りこう語ります。
「ケーキなど菓子に関するものはなんでも挑戦した。親元だけで修行したら井の中の蛙になってしまうだけだった。『他人のめしを食わせてもらい、何かをつかんでこい』という親心に応えるためにもがむしゃらに頑張った」


昭和初期の店舗(1933年撮影)

現在の店舗

伝統守り新しい味を創造。“お客様の心”糧に日々研さん

 宏氏は父(二代目)豊氏から41歳で跡を継ぎ、新商品の開発にも積極的に取り組みました。栗饅頭の製法は創業当時と変わりません。砂糖・グラニュー糖・卵・ハチミツ・小麦粉で作った皮に白あんを詰めた後、丸形から栗形に成型して焼きます。皮に卵の黄身を上塗りして焼くと本物そっくりのこげ茶色に変わります。栗饅頭の他にも、栗入りあんをパイ皮で包んだ『まろんぱい』など約10種類を商品化しました。宏氏はこう語ります。
「技術的には新商品を作りだすことは難しくないが、考えすぎて作った商品は大半の場合は全く売れない。売れるためにはまず遊び心が必要。異業種の方々が企画した方がかえって売れると思う。」


まろんぱい

 姿も味も昔ながらの栗饅頭。親子三代通い続ける常連さんの姿も少なくありません。「栗饅頭は土地の人々に食べてもらえばいい」との信念から大手百貨店の出店要請を断り続けるなど『本店主義』にこだわってきました。頑固なまでに伝統を守りつつ、さらに新しい味を創造する職人気質が田中旭栄堂の魅力かもしれません。
 「うちの栗饅頭は全国版ではなく地方版。お客様に『おいしい』と言ってもらえることが一番うれしい。どこにでもある栗饅頭ならすぐに飽きられる。あんの甘さを抑えるなど自分なりの研究を重ねて今の味を作りあげてきました。」