長崎しにせ会加盟店は激動の歴史とともに歩んで参りました。
創業当時の写真など現存する資料を交えながら加盟店の歴史を
振り返ります。

第四回/四海樓

四海樓の誕生

 明治25年、こうもり傘一本持って大陸から長崎へ渡ってきた若者がいました。福建省福州の出身、19歳の陳平順(ちんへいじゅん)です。
 平順は「長崎でひと旗あげよう」と、新地で砂糖貿易商を営む縁者の益隆号をたよりました。当時の華僑は、料理、散髪、仕立屋という“三刀の仕事”ぐらいしかできない状況でありましたが、平順は保証人の益隆号から金を借りてリヤカーに反物を積み、遠くは島原まで足をのばし、行商しながら資金を貯えていきました。

 明治27、28年の日清戦争を機に華僑に対する風当たりが強くなりましたが、平順は侮蔑の眼差しに耐えながら、無心に働くことで苦境を乗り切りました。7年後の明治32年、明治の初めまであった唐人屋敷の入口付近、広馬場に中華菜館兼旅館の『四海樓(しかいろう)』を創業しました。横看板には大きく『官許 大清國四海樓御旅館菜園酒館時點雅菜各国料理』『四海樓清國御料理御旅館』とあり、英文の看板もありました。従業員30人の意欲に満ちた開業でありました。

 この四海樓で生まれた『支那饂飩(しなうどん)』がその名も『ちゃんぽん』と変わり、長崎で最も親しまれる大衆料理へと発展し、『ちゃんぽん』はいまや日本の代表的な食べ物の列に加えられるまでになっています。
 平順は、自分が長崎へ渡ってくるときに苦労したことや世話好きの性格も手伝って中国から渡航してくる華僑や留学生の身元引受人になっていました。そんなとき、食べ盛りの留学生のひどい食生活を見るに見かねて、どうにかしたいと考案したのが『ちゃんぽん』でした。安くてボリュームがあり栄養満点の『ちゃんぽん』は、留学生の食生活向上に役立ったばかりか、たちまち長崎の中華街にひろまっていきました。当時の四海樓の看板には『支那料理四海樓饂飩元祖』の文字があり、ある日、平順は娘の清姫から『ちゃんぽん』を商標登録するように勧められたことがありましたが、「留学生や長崎人にかかわらず大勢の人に食べてもらえたら満足だ」と言い、聞き流したといいます。
 その後のちゃんぽんの足跡は、明治40年発行の『長崎県紀要』に見られます。支那留学生の好物としてちゃんぽんが紹介され、市内に十数店のちゃんぽん屋があると記されています。
 更に大正3年発行の『長崎案内』には、長崎名物最大流行の第一番として『支那うどん』が紹介され、ちゃんぽんは長崎名物として有名になっていきました。大正7年9月、東京相撲の長崎巡業があり、丁度長崎に住んでいた齊藤茂吉は同郷山形県出身の出羽嶽を行きつけの店である四海樓に招き、ちゃんぽんをご馳走しています。
 四海樓は『皿うどん』の元祖でもありますが、この『ちゃんぽん』と『皿うどん』のおいしさを伝え聞いて、さまざまな著名人が訪れました。草柳大蔵氏、五木寛之氏、永六輔氏、清水崑氏、山崎朋子氏、新珠三千代氏・・・・。吉屋信子氏は半年間『皿うどん』を食べつづけたそうです。更に、昭和31年に常陸宮殿下、昭和52年には浩宮さま(現皇太子殿下)も訪れになり、おふた方とも皿うどんをお代わりされたほどであります。
 戦後、昭和26年9月26日には籠町(旧 広馬場町)で二代目のもと再び開業し、昭和48年11月14日には松が枝町に観光業も取り入れた業務拡大をして移転、平成12年には創業100周年を機に店舗を新築、7月4日に新しく生まれかわりました。三代目のもと今日に至っています。

ちゃんぽんのルーツ

 ちゃんぽんのルーツは福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』です。湯肉絲麺は主体として豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代 陳平順(ちんへいじゅん)がボリュームをつけて濃い目のスープ、豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽん』です。

 今日では缶詰や冷凍など保存技術の発達により食材が年中ありますが、当時は、そういうわけにもいかず苦労していました。そこで長崎近海でとれる海産物、蒲鉾、竹輪、イカ、うちかき(小ガキ)、小エビ、もやし、キャベツを使い、ちゃんぽんの起こりとなりました。季節による食材を使っていたことから『ちゃんぽん一杯で四季が感じられる』料理と言われ、また『和』と『華』の融合、長崎の山海の幸から、長崎だからこそ創りだされた郷土料理とも言われています。
 料理法はまず鉄鍋を煙がでるくらいに焼き、肉を入れ具類を油でいため、強火でよくかき混ぜて風味をつけます。スープは丸鶏2〜3羽と豚骨と鶏骨を3〜4時間かけて炊き上げたものを使います。このスープの取り方と火加減が秘訣となります。
 麺は麦粉に唐灰汁(とうあく)を入れて作った独特のものですが、独特の風味が出てまた腐敗防止にもなります。ラーメンや中華麺は、かんすい(炭酸カリウム約90%)で小麦粉をこねますが、ちゃんぽんの麺は唐灰汁(炭酸ナトリウム約90%)の水でこねた長崎特有のもので、福建の食文化が活かされています。こうしたちゃんぽん麺、今では長崎市を中心に50社余りが製造しており、関西、関東方面に積極的に営業を展開し、その生産額は10億円を超えると言われています。
 現在、長崎市内には百数十軒の中華料理店がありますが、ちゃんぽんを供する店は更に多く千軒以上あると言われています。『ちゃんぽん』の名付け親は今もってはっきりしていません。当初、支那うどんと名付けられていたものが、明治時代の後期頃からどのようにして『ちゃんぽん』と呼ばれるようになったのか・・・。中国語という一般的に北京語(普通語)のことを言いますが、広大なこの国には、数えきれないほどの方言があり、その方言も殆ど外国語のようなものでコミュニケーションがとれないことが少なくありません。その一つに福建語があり、『吃飯(福建語でシャポン又はセッポン)』という言葉があります。これは『ご飯を食べる』という意味です。
当時、親しい人に出会ったとき『ご飯を食べたか?』と挨拶していました。その時々の関心事が挨拶になることは世の常であり、例えば、梅雨などの天気であったり、商売が儲かっているかどうかなど・・・。
 この時期の華僑や留学生にとっては貧しい時代であり、日々の食事が最大の関心事でありました。『ご飯を食べたか?』と挨拶されて『していない』と答えると『では、うちで食べていきなさい。』と言っていたのかもしれません。この挨拶言葉の『吃飯』が長崎人の耳にふれるようになり『支那うどん』と同義語になり、ついには『ちゃんぽん』になったのでないか。つまり華僑や留学生の会話のなかに活きた言葉として生まれたものと考えられます。
 また、江戸時代すでに『チャンポン』という言葉があったという説。中国の鉦(かね)のチャンと日本の鼓(つづみ)のポンを合わせて『ちゃんぽん』と言った。異質の音が混合した造語であり『支那うどん』と同義語になり『ちゃんぽん』と呼ばれるようになったと言う説もあります。
因みに、1997年10月に四海樓の三代目当主とその長男が、初代平順の生まれた故郷を訪ねた際に『ちゃんぽん』の語源と考えられる『吃飯(福建語でシャポン又はセッポン)』を聞くことができ確認しています。