長崎しにせ会加盟店は激動の歴史とともに歩んで参りました。
今回は「株式会社文明堂総本店」のご紹介。

第三十一回/株式会社文明堂総本店


■公募により商標が決定
文明堂の「文」を円形にデザインし、
右に「明」左に「堂」下に「中川」配している。
「カステラ1番 電話は2番」のキャッチフレーズでお馴染みのコマーシャルは、誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。
「文明堂」が開業したのは明治33年(1900)初代中川安五郎23歳の時。
安五郎は長崎県島原(現在の国見町)に生まれ、厳格な父に「手に職を持て」と教え込まれて育ちました。

 開業当初、安五郎は開店ビラ3000枚をつくり、一軒一軒宣伝して歩き回りました。これが文明堂の最初の広告宣伝だったのです。
こうした経営の知恵と菓子作りの情熱を人々が次第に認め、客足も増えていきました。
そんな矢先の明治37年(1904)日露戦争が始まりお菓子が売れない、原料も手に入らない絶体絶命の危機に陥ります。
 しかし、アイデアマンの安五郎は水飴を原料とした商品で苦境を乗り切ったのです。
大正3年に大正大博覧会(東京上野公園)が開催され、長崎県の推薦によりカステラを実演販売し大好評でした。
安五郎は、この博覧会でもユニークな行動をとった。それは「歩く広告塔」を実演。赤いトルコ帽に金筋を入れ「長崎名産文明堂のカステラ」の文字を浮き出させ会場内を歩き回り、人々を驚かせました。
博覧会は大盛況に終わり、そしてこれが東京支店を開設するキッカケともなります。
大正14年(1925)には宮内省にカステラ納入のご用達を賜る。

 年号が昭和に変わり安五郎の販売アイデアは勢いを増すばかり、賞品をくじで当てるという「福引き大売出し」や、「料理屋金鍋すき焼き店」を開設、文明堂の3文字がどんどん人々の心に焼きついていきました。
そして、冒頭でもあるように「キャッチフレーズ」の電話帳広告を先取り、本格的宣伝を開始したのです。

 隆盛を極めていた文明堂にまたしても大きな危機。昭和19年(1944)太平洋戦争が激化し原材料が手に入らず、止むを得ず店舗を閉鎖し旅館業にきりかえました。
戦後の混沌とした時代の中で、急速な勢いで会社の復興を計り、昭和27年(1952)には玉江町・大波止(現在の江戸町本店)に2階建ての本店新社屋が完成。
 また昭和32年(1957)には「第14回全国菓子大博覧会長崎大会」において名誉会長に就任。同年、内閣総理大臣よりカステラの品質向上に寄与した功績で黄綬褒章を賜り安五郎の熱心に夢を追い求めたカステラ作りが実を結んだのでありました。


■昭和27年(1952)文明堂総本店社屋新築
玉江町(現在の江戸町本店)


 昭和32年(1957)、中川真晤が安五郎の後を継いで二代目社長となりました。しかし、順風満帆のその矢先、昭和38年(1963)、安五郎の逝去。
失意に包まれる従業員に対し「初代の残した味を絶やすな」と叱咤激励して奮起を促しました。初代の遺志を継いで二代目安五郎を襲名し、どんどん引っ張っていったのです。

 昭和44年(1969)に二代目安五郎の長男、安明が三代目社長に就任。
世の中は高度経済成長の真っ只中。安明は次々と新商品を販売し、いずれもヒット商品として今でもお客様に好評をいただいております。
平成9年(1997)に文明堂合資会社は株式会社文明堂総本店に改称。平成11年(1999)文明堂は百年を迎え、平成15年(2003)に四代目社長に安英が就任。

 お陰さまで創業100周年を迎えた文明堂総本店は、初代から代々受け継がれてきたお菓子作りの情熱を絶やすことなく、「良い品を笑顔で売ろう」をモットーに、創業者の心を伝え、初心を忘れず、時代と共に歩んで参りたいと思います。


■平成19年(2007)に長崎市都市景観賞を受賞「歴史のある部門」

■文明堂総本店の代表的な商品
カステラ(左)三笠山(中)カステラ巻(右)

■文明堂の宣伝広告
昭和初期の車(左)テレビCM(中)矢上浮立のカステラ宣伝隊(右)